米澤穂信『追想五断章』には賛同できない

最近、米澤穂信の『追想五断章』を読了した。今更感あるぞとか言わないでね。

※以下ネタバレ注意

 

追想五断章 (集英社文庫)

追想五断章 (集英社文庫)

 

 

『追想五断章』のやり方には賛同できない

米澤穂信は大学生の頃から追いかけていて、『追想五断章』を含む数作品を残すのみとなって、先日同作を読み終えた。一言で言うと、エンタメではなかった。詳しいことを書くとネタバレになるので書かないものの、リドルストーリー(結末を読者に委ねる物語)に支配された作品だった。

 

ミステリとしての出来は秀逸。推測できる部分は多いけれども、それでも驚かされるところは多い。さて作品としてはどうか。『氷菓』が灰色の青春であるならば、『追想五断章』は常に雨が降り続けているような印象だ。

 

読んでみればわかるけど、とにかく雰囲気が暗い。キャラクターの個性も薄い。ミステリの技巧こそ優秀であれど、それ以外のパーツはぽっかりと穴が空いてしまったような物足りなさを感じる。それさえも米澤穂信の掌の上であるとも言えるけど、僕はこのやり方に賛同できない。

 

胸糞悪い展開、後味の悪い展開は好きだ。有名ではないかもしれないけど、藤ダリオの『出口なし』を読み終えた時、シンプルなストーリーでありながらも「うわあ」を声を漏らしたことを覚えている。

 

出口なし (角川ホラー文庫)

出口なし (角川ホラー文庫)

 

 

でも『追想五断章』は後味が悪いわけじゃない。ただ何も語られていないのだ。

 

主人公の菅生芳光。彼は一連の事件をきっかけに、居候していた伯父の古書店から引っ越すことを決める。定番のエンタメなら最後に芳光が事件を振り返りつつフェードアウトするのが一般的かもしれない。ここは個人の見方次第だ。

 

米澤穂信は何もしなかった。芳光が休学中の大学に退学届けを出す……という情報は書かれているけど、それ以降は何の情報もない。きっとこれは作中で大きなカギを握る「リドルストーリー」になぞらえた表現なんだろう。作品の大筋さえも、米澤穂信はリドルストーリーにした。これは面白い試みだと思う。単純なミステリ作品としては万雷の拍手を贈りたいところ。

 

ただ、これをあくまでエンタメとして評価すると、星の数は一気に下落する。なんせ、登場人物のひとりも、その後が描かれることなく幕を閉じているのだ。

 

たとえば、従来の作品ならヒロインの立ち位置に落ち着くだろうキャラ・久瀬笙子でさえ、特に重要な働きをすることもなく突然フェードアウトしてしまう(役目はあるけど、ストーリーに踊らされている印象は拭えない)。少し驚いた。ここで消えるのなら、このキャラクターは必要なかったのではないか? と。伯父だって重要な人物なのに、本筋にはほとんど関わってこない。たまに小さな情報をこぼすだけで、わりと小道具と変わらない役目。率直に言えば蛇足である。

 

米澤穂信のミステリ作品といえば、「一組の男女が謎に立ち向かう」という構図が(主に僕のなかで)めきめきと建築されているので、それと無意識に比較して違和感を覚えているだけかもしれないけど、それにつけても鬱屈とした作品だった。作中作の出来にはさすがと諸手を打つしかない。リドルストーリーであれ、それ単体で完成されているからだ。作品全体はリドルストーリーでありながら完成していないので、その部分には賛同できない。

 

個人のWEBページで公開される作品にこういうものがあっても「そういうものもあるだろうな」と納得できる。しかし『追想五断章』は本格ミステリと銘打たれ、大衆小説として刊行されている。ならば一種のエンタメ作品として完成されているのが筋ではないだろうか。

 

僕は読んだ作品のすべてに吸収すべき部分があると考えているけれども、この作品はなかなか難しい。結末の不確かな作品を量産したところで、こんな風に長文を書き連ねる人が増えるだけだ。もっとも、同作から学ぶところは他のところにあるので、そこは個人の感覚次第。僕も違う部分でメモ書きを作った。

 

これはエンタメではなく「ミステリ」の教材

結論を言おう。米澤穂信の『追想五断章』、ミステリとしては面白い。ただ、エンタメ小説として俯瞰するとやはり粗があると言わざるを得ない。これは純粋なミステリの仕組みを学ぶ作品として読むべきだろう、決して山あり谷あり紆余曲折のエンターテイメントを求めてはいけない、そういう小説だ。

 

もっとも、そう感じることでさえも見透かされているような気がして、どこかうすら寒くなってしまう。

 

明日は少し、冷え込むらしい。