箱庭スタジオ

ゲームを中心にサブカルコンテンツの雑記・レビュー・コラムを書いています。

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『ケムリクサ』は創作者にとって大切なものを思い出させてくれた

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「好き」を貫くのは、難しいけど、とっても大事。

 

この頃、アニメを見る機会があまりなかったのだけど、つい先日、Twitterのタイムラインで「3月27日に『ケムリクサ』の最終話が放送されるからそれまでに11話まで見てほしい」というつぶやきを見かけ、ちょうど僕自身インプットが不足していたということもあり、冬眠していたプライム・ビデオを揺り起こして『ケムリクサ』を視聴することにした。ほんの3日前のことだ。3日前まで『ケムリクサ』がどういうアニメなのかもよくわかっていなかった。

 

25日は第1話を見た。人類が滅んだような世界で、水を求めて生きる姉妹。そこへやってきた謎の少年わかばわかばを見ていきなり惚れてしまうりん。「ツンデレなチョロインが自分の気持ちに正直になるまでの話かな」とはぼんやり思っていた。少し不思議な終末世界にラブストーリーのエッセンスが足されるくらいだろうなとしか考えていなかったので、まさかこれが一組の純粋な愛を描いたものとは感じてもいない。この日は眠かったので1話を見終えたところで「残りは明日でいいや」と諦めて寝た。

 

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26日は残りの10話分を見た。涙腺の脆さには定評があるので、7島にたどり着いたときはりつ姉と一緒に泣いた。やっとの思いで水を得られたと思ったのも束の間、一向には新たな脅威が降りかかる。目的を達成した後、さらなる目的が生まれるのはロードムービーのお決まりだろう。

 

この時点では「赤い木を倒すのが最終目標のドラゴンクエスト的冒険譚だ」と思っていた。悲しいことにあまり考察はしていなかった。「分割後の私」とか「最初の人」とか興味深いワードは散見していたけど「もともとは一人だったけど、生存率を上げるために分裂したのかな」程度にしか考えていなかった。余裕がなかったのだと思う。

 

11話を見た。

もっと早くに『ケムリクサ』を見ておきたかったと後悔した。

 

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『ケムリクサ』を「仲のいい姉妹と少年が心を通わせながら荒廃した世界を生きていく物語」としか見れていなかったのが少し恥ずかしくなった。認識が完全に間違っているわけではないけど、主題は別にある。『ケムリクサ』は悲しいまでに純粋な愛の物語だった。テーマを一文にまとめるなら「好きを押し殺していた少女が好きなものを好きと言えるようになるまでの物語」だろうか。

 

このあたりの解釈は三者三様だろうから断定しない。僕はそういう話だと思った。思えば、りん以外の姉妹の全員が自分の「好き」に忠実に生きているのが『ケムリクサ』だった。世界の終わりだからこそ、好きなことをして生きてもいいじゃないか――そんなメッセージを伝えたいのかなと思っていた。

 

そうではなかった。まず『ケムリクサ』の世界は「世界の終わり」ではなくて、あくまで「船」という箱庭世界で描かれる話だった。立ち並ぶ廃墟は作りかけの建造物だった。姉妹と少年の放浪の話ではなく、ある少女の一途な想いが生んだ悲劇だった。もう少しで自らが作り出した元凶を断てるというところで、わかばが赤い木に貫かれて血を流す。11話はそこで終わった。価値観を壊されるというと大げさかもしれないけど、それくらいに衝撃を受けた。茫然自失となって、放心して、ただただ翌日配信の最終話を待ち続けた。

 

27日。12話を見て、満ち足りた思いになって、得も言われぬ充足感を覚えながら一日を過ごして、今この記事を書いている。

 

考察に関しては数多の他ブログに譲るとして、僕がここで書きたいのは、『ケムリクサ』はクリエイターにとって大切なものを思い出させてくれる話だということ。『ケムリクサ』では、物語のいたるところで登場人物の「好き」が示されている。

 

ミドリを育てるのが好き。食べるのが好き。ケムリクサが好き。戦うのが好き。背中をなぞられるのが好き。センチョウのタスカルことが好き。みんなそれぞれの好きを貫いているなかで、主人公であるりんだけは自分の「好き」を封じ込めていた。12話の最後で、りんはようやく自分の「好き」を素直に表現できるようになる。

 

前に書いたように、『ケムリクサ』は「りんが好きなものを好きと言えるようになるまでの話」だと思っている。人によって表現の違いはあれど、この認識は大きくズレないと思う。

 

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好きなものを好きと意思表示するのは意外と難しい。そりゃ、たらこスパが好きですというくらいならいくらでも言えるだろうけど、異性に対して好きと言うのは勇気がいるし、就活の場などでは自分の好きを押し殺すこともあろう。ことに、創作物を発表する場で自分の好きを思う存分に表現することは難しいと思っている。

 

世論はそうでもないかもしれない。好きで創作やっているのだから、自分の好きを貫くのは難しくないと反論する人もいると思う。僕は難しいと感じた。自分が本当にやりたいこと――好きなことが何なのかと考えるたびに向いている方角が変わった。

 

好きなものならたくさんある。童話が好き。ミステリーが好き。刑事ドラマが好き。少し不思議な世界観が好き。終末ファンタジーが好き。じゃあそれをごった煮にしたら本当に自分の好きなものなのかというと、そうではないと思う。刑事が童話の世界のミステリーを解き明かす物語なんて――それはそれで面白そうだけど、自分が一番好きなものとは思えない。本能的な好きはもっと別の部分にあると思った。

 

自分の「好き」を貫くのは難しい。それが本当に自分の好きなものなのか、ときどきわからなくなるからだと思う。小説を書くにしても、自分が好きなのは、良い作品を書いて褒められることなのか、理想郷を描き出すことなのか、コミカルなやりとりを綴ることなのか、ときおり見える心の汚さか、命を踏みにじることか、人と人の絆か……考えればキリがない。キリがないから面白い。自分の好きを見つけ出すのは、表現するのは、認められるよう研鑽していくのは、この上なく面白い。そう思う。

 

好きなものを好きと言う、いや、言えるようになることの大切さを、物語を通して教えてくれた気がする。そんな『ケムリクサ』が大好きだ。